目の症状について語る

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今回は私が抱える問題について話します。私は現にこうやって文章を書いていますが、実は目に問題を抱えています。なぜそうなったのか、症状が発生してからはどんな生活を送るようになったのか、をメインに話します。

目の調子を悪くして約6年になります。6年前何があったかと言いますと、その時高校三年生で受験のプレッシャーから無理をした時期がありました。高校三年生になりたての時点で、目指していた大学Aには遠く及ばない成績でした。実は担任から大学Bの物理学部への公募推薦を勧められていたのですが、それでいこうとは思いませんでした。推薦されることにはなったのですが、実際はその勉強をさぼっていました。公募推薦、それを受け入れると、何か負けてしまうような気がしました。私は一般受験にこだわっていました。一般受験で合格しないと、実力で突破したことにならない印象を持っていたからです。高校一年の時も、その学年の時の担任に同じように公募推薦を勧められていました。もちろんそれは断りました。でも分かっていたんです。本当は、自分の才能は偏っていると。私は数学や物理の才能はある一方で、現代文などはないことを知っていたんです。でも嫌だったんです。私はそれを認めたくなくて、もがいていました。しかし認めたくないとはいっても、成績が振るわないのも事実でした。特に足を引っ張っていたのは現代文でした。現代文の問題は長い文章を読まないと解けないため、速読を出来るようになりたいと思いました。一週間自由に過ごせるゴールデンウィークに、速読のトレーニングを行おうと考えました。

ゴールデンウィークに入り、適当に本を決めそれを速く読めるようになるのを目標にしました。しかし読書を始めて数時間ほど経ってすぐ、変化が起きました。どれだけ速く読めるかではなく、どれだけ速く目を動かせるかという目標にすり替わっていました。その作業をやっていた時の環境ですが、まず自分の部屋に閉じこもっていました。食事、トイレ、睡眠以外は自分の部屋に閉じこもって、ずっと本を開き目をパッパッと動かしていました。閉じこもってはいましたが、物理的には明るい環境でした。ゴールデンウィーク中は毎日、晴れていました。ギンギンとした日差しの下で、地ベたに座ってその作業をやっていました。座り方ですが、ゆるい体育座りみたいな姿勢でした。夜は地ベたに座るのではなく、机の前に立ってやっていました。机に備え付けたライトを最大限に付け、その光を開いた本に落としてその作業をやっていました。初日で辞めておけば良かったのですが、当時は精神的に身動きが取れずその作業を止められませんでした。体が止まりませんでした。

ゴールデンウィークが終わり学校に行くようになってから異常に気づきました。何となく目が重く、視界が暗く感じたのです。その時は、あんだけ無茶なことをやったから疲れ目になったんだなと思いました。数日も経てば治るだろうと。しかしそうはなりませんでした。それどころか変な症状が現れました。眼鏡を掛けているのが辛くなったんです。それで外してみると少し楽になりました。しかし当たり前ですが、裸眼なので視界がぼんやりしました。何か見ようとするときは目を凝らし、それ以外はボーとする。

そんなスタイルが定着して、夏休みになりました。その初めのほうに三者面談が行われました。学校に行き、教室で控えていた担任の雰囲気がいつもと違っていました。担任は静かに怒っているようでした。担任は、手元のパソコンに大学とその偏差値を並ベたものを表示させ、今の私のレベルで受かる可能性のある大学はここだと言いました。そして私が目指していた大学に受かるには、あと何点必要でどうやってそれを実現するのか、担任に詰められました。私はもごもごと当たり前のことしか言えませんでした。担任はそれを確認すると、公募推薦なら大学Bに高い確率で受かると言いました。私はうなだれながら「大学Bを目指します」と言いました。

秋になりました。ゴールデンウィークが明けてすぐ眼鏡を掛けて疲れるというのがあまりにショックで、眼鏡は仕舞ったままでした。受験が迫りこのままではまずいと思い、眼科Aに行きました。そこでただの疲れ目だと言われ目薬を処方されました。私はそこで不信感を抱きました。何カ月も改善していないのを疲れ目だと言われ、納得がいきませんでした。しかしまあ一応目薬を処方されたのでそれを差してみたのですが、やはり改善しませんでした。受験期だったので眼科2件目とはなりませんでした。案外その生活に慣れていたので、その休み休みの勉強を続けました。

秋の終わり、大学Bの受験がやってきました。受験会場で他の生徒たちが参考書などを読んでいるのを見て、恥ずかしくなりました。私は目の症状のためにまともに本が読めないので、受験会場にそういったものを持ち込みませんでした。しかし周りが参考書を読んでいる中一人ただ座っていると、受験する気があるのかと思われているような気がしました。そんな心持の中受けたペーパーテストの手ごたえは微妙でした。完全に失敗したわけではないけど、安心しきれるものでもありませんでした。面談の方はうまくいきました。ペーパーテストで失敗した分を取り返すんだと活き込んで、それが態度にも表れたようです。

受験が終わりそのプレッシャーからは解放されましたが、今度は結果がどうなるのか心配になりました。目が疲れてアニメを見たりゲームをしたりすることも出来ないので、すっかり体に染みついた休み休みの勉強をして過ごしました。

年末に入り、大学Bに合格したとの連絡を受けました。うれしかったです。しかし私には勉強したという自負はありませんでした。あんな勉強量で合格出来のか、と私はその幸運に感謝しました。家に帰り両親からも兄弟からも、そして母方の祖父母にも祝福されました。母方の祖父母から連絡を受けた時、高校に入るころ大学Aを目指すと宣言したのを思い出し一瞬心が暗くなりました。

公募推薦が終わっても一般受験が残っていました。担任からは公募推薦を受けた人も一般受験を受けろと言われていました。しかし私は合格したので、一般受験のための勉強はしませんでした。高校卒業まで時間があり暇になった私は、家で絵を描き始めました。もともと絵は描いていました。絵を初めて描いたのは、幼稚園の時でした。その頃は、恐竜の骨の絵ばかり描いていました。当時の私には目の前の紙しか見えていませんでしたが、周りからはさぞ変に思われたことでしょう。幼稚園を卒業してからも絵を描いていました。絵を描くとき、顔をぐっと紙に近づけていたせいで近視になりました。親から度々注意されたのですが、当時の私には響かなかったのです。近視になってからは眼鏡を掛けるようになりました。次第に、姿勢が悪くて視力が落ちたのだと理解して、姿勢を正すようになりました。しかしあの事件以降はずっと絵を描くのをやめていました。手元作業は目が疲れるからです。そうはいっても公募推薦が終わり高校卒業を待つ、あの期間が暇で、なんとなく絵を描き出したんです。そしたらハマっちゃって、目が疲れるのにでもやっぱり絵を描くために机に向かっちゃう。休み休みのスタイルには慣れていたので、絵も休み休み描きました。私は人を描いていました。実はそれまで風景画ばかり描いていたので、真正面から人を描くのは初めてでした。初めはド下手でした。風景画ではそれなりの画力になっていただけに、へこみました。しかし諦めず描きました。

大学に入学しました。入学式の帰り、頑張って勉強していこうと思いました。しかし通うにつれ、また現実を突きつけらえました。相変わらず目の症状があり、ちょろっと読んでは顔を上げを繰り返すので勉強が全然進みませんでした。それで単位をボロボロ落としていきました。

大学二年生になり、家族に目の症状を打ち明けました。他者に目の症状を話したのは初めてでした。それまで言ってこなかったのは、言えなかったからです。こんなにも目の症状が続くのは異常であり、家族にそれを話すと心配されるかと思っていたんです。しかし家族に単位を落としまくっていることの説明を求められ、いっそ白状してしまって楽になりたいと思ったのです。家族は真剣に聞いてくれ、眼科に行くよう勧められました。私がそれまでずっと眼科に足を運ばなかったのは、眼科Aでのトラウマがあるからです。違うところに行ってもどうせ同じように軽んじられんじゃないか、と怖かったんです。しかし家族に背中を押され、眼科Bに行くことにしました。

重い足取りで眼科Bに行きました。家族に背中を押されたとはいえ、眼科Aのトラウマは残ったままです。医師に目の症状について事細やかに説明すると、医師は眼精疲労だと言いました。事の深刻さを認めてくれ、私はうれしくなりました。目薬を処方され、私はこれで長きにわたって自分を苦しめてきたものから解放されるんだと思いました。しかし実際に目薬を差して、それが幻想だと気づきました。改善しなかったのです。

普通ならまた眼科Bに行き、改善しなかったから他の方法を試してくれ、と言うところですが、眼科Aのトラウマが邪魔をして行く気に慣れませんでした。単位は落としているけど、朝起きて休み休み勉強して夜寝る、そんな生活に慣れきっていたのもあり行動できませんでした。

目を治すためのことをしない怠惰な生活を送って、ただで済むわけがありません。留年をしました。それでも私は映画「ロッキー」の序盤のようにすっかり気力を失っていて、行動を起こせませんでした。

相変わらず単位を落とし、家族から「もう、大学を辞めるか?」と言われました。私は「それは嫌だ」と返しました。私はもう大学を卒業することはかなわないな、と薄々感じていました。しかしだからと言って辞めたくもありませんでした。そのまま辞めたら野垂死ぬと思ったんです。生きていくためには働いてお金を得る必要があります。外で働くとしたら、高卒という学歴で雇ってくれるところは限られています。それはきっと労働条件が悪い所でしょう。私はこのまま死ぬまでずっと目の症状を抱えていくのが嫌でした。必ずやいつか治したいと思っていました。ですが治療のためにはお金が必要です。高卒で雇ってくれるところは往々にして賃金が低いので、その日その日を食っていくだけのお金しか得られません。それでは治療費をためることが出来ません。さらに別の問題もありました。私は目の症状を抱えていました。それもちょっと疲れるというものではありません。とんでもなく、強く頻繁に起こるものです。なので労働条件が悪かろうが良かろうが、まともな作業が出来る自信がなかったのです。それを想像すると恐ろしくて大学を辞められませんでした。私は、とにかく時間稼ぎをしなくてはと思いました。

ちょっとでも長く大学にいるためにはどうしたらいいか。そこで思いついたのが休学でした。休学するためにまず、申請書をもらいました。その中に休学したい事由を書く欄がありました。私は、目の症状で単位が取れない、治療のため休学をしたい、という旨を書き、それを提出しました。すぐ休学許可の連絡が来ました。私はホッとしました。これで少し時間稼ぎができる、と。

休学期間に入りました。私は大学に説明した通り、治療に専念しようと思いました。もしかしたら治療法が見つかるかもしれません。そしたら勉強のために文章を読むのも楽になり、諦めていた大学卒業の道も見えてきます。ですが眼科A、B以外の眼科を一二件行って、そこでやめてしまいました。そこでもやはり芳しい結果が得られず、眼科Aのトラウマを増強させてしまいました。文字通り時間稼ぎをするだけの生活となってしまいました。

休学期間の終わりが近づいた正月、母と大喧嘩しました。母に何もしていないことを知られ、大激怒されました。私は私で、分かってはいるけどどうすることもできない、と不甲斐なさを訴えました。しばらく互いに口をきかなくなりました。

ある日、父が個人事業をしたらどうか、と言ってきました。私には考えもつかない提案でした。私はそれまでずっと、働くと言ったらどこかに雇ってもらうものだと思ってきました。もちろん個人事業の存在は知っていました。しかし自分には無縁だと思っていました。ですが父からの提案を咀嚼して、それが言い考えだと思えてきました。個人事業といっても色々あり、ネットで行うものもあります。その場合、店の土地代、建物の費用がかかりません。さっそく私はネットでネットビジネスについて調ベました。そこでアフィリエイターという仕事があるのを知りました。なるベく時間の融通が効くのを探していた私は、これだっ!と思いました。私はアフィリエイターになりたいと両親に話しました。母は依然として怒っている態度でした。

やっていくことの方向性が見えた私は、大学を退学しました。大学を退学する前にこのサイト「SIRITORINGO」を開きました。しかしそこまでいくのも大変でした。アフィリエイターになるには初めに調ベないといけないことが沢山あります。アフィリエイターは自分のプラットフォームを持つ必要があります。そのプラットフォームを何にするか、またどんな風に運営していくか、調ベても調ベても不安でした。アフィリエイトは無料で登録できるブログでも行えます。しかし調ベると、大勢とドメインが被って自分のブログが検索結果トップに表示されにくい、突然サービスが封鎖されてしまうかもしれないなどのリスクがあることを知りました。それで私は自分のサイトを持とうと考えました。立ち上げる際、最初の設定しなければならないことが多くてスムーズにいきませんでした。何日もかけてようやく立ち上げが完了しました。

私は次の問題にぶち当たっていました。サイトを立ち上げたはいいものの、そこに載せる記事がないのです。ネットには書きたいものを書こう!という励ましが溢れています。しかし私は、それができたら苦労はしない、と頭を掻きむしりました。そもそも思いつかないから調ベているんだ、と。ネットは広大であり、無責任な励ましではなく実際にどうしたらいいのかについて書かれた記事もあります。そこでは、何かジャンルを絞ろうというアドバイスがありました。しかし私には何か一つのことについてまとまった知識がなかったのです。悩んだ挙句、雑記型にしようと考えました。ジャンルを絞らなければ何かは書けるだろう、と。

記事第一号は『洞窟の比喩』についてのものでした。『洞窟の比喩』は、プラトンという哲学者がとある主張をするために用いた喩え話です。これは通常、その主張を考えるきっかけに使われますが、私は敢えてその喩え話自体について考察しました。初めて自分のサイトを持って、奇をてらったものを書きたかったんだと思います。初めてこの記事を投稿する時、ものすごく緊張しました。ネットでは著作権が何だと色々問題が起きています。私が『洞窟の比喩』を使ったのは、著作権などに引っかかりたくないというのもあります。これだったら何百年も前に亡くなった人の作品なので大丈夫だろうと思ったんです。こうしてドキドキな心持で投稿し、ユーザーの反応を待ちました。しかしその結果は衝撃でした。クリック数どころか表示回数が一桁という世にもおぞましい結果だったのです。これではとても、収益化どころではありません。私は、まだ1記事目だからしょうがない、と自分を落ち着かせました。

2記事目も中々投稿できずにいました。著作権に引っかからないものは何か、気が狂いそうになるほど考えました。そして思いついたのが、日本昔話にツッコむというものでした。日本昔話は、青空文庫に載っています。桃太郎も、浦島太郎も、何でもあります。それらの作品に対して、「何でそうなるんだー」みたいな感じでツッコむ。そんな記事を投稿しました。ツッコまないで普通にしみじみとした感想を書いてもよかったのですが、やはり奇をてらいたかったんだと思います。

日本昔話にツッコむという性格の悪い記事を何本か書いてから、また書けなくなりました。有名どころは全てやってしまい、ネタ切れになったのです。青空文庫には日本昔話以外の様々な作品が収録されていますが、日本昔話ほどツッコみやすいものがないのです。私は青空文庫以外で著作権を気にしなくて済むサイトがないか考えました。そしてあのサイトを思い出しました。あまりに日常に溶け込み過ぎていて意識したことのない、あのサイト。Wikipediaです。私は、Wikipedia内で適当にページを決め、それを要約して、ちょいちょい自分の感想を挟む、そんな記事を書くことにしました。

今現在、大量に記事を投稿できていますが、それぞれの文章量は少ないです。ですがこれから、もりもり膨らましていくつもりです。

目の話に戻します。今現在の症状は、一点を注視し続けることが出来ないことと、小さい字を見ると線が重なって見えることと、一定時間たつと眼球が特定の方向を向いてしまうことの3つです。

3つ目の症状は特定の姿勢を取ることで解消されるのですが、それを繰り返してきたので結果的に体が歪んでしまいました。今年の初めに姿勢の方を治したのですが、逆にこの症状が酷くなりました。再び姿勢を悪くしたところ、この症状はマシになりました。だから体の歪みはこの症状を治さない限り、治せないと思いました。この症状ですが、私には思い当たることがあります。私は高校三年生の時に目をおかしくしてから、丸一日眼鏡を掛けないで過ごしてきました。今では手元作業する時に限り眼鏡を掛けますが、少し前までは完全に裸眼で生活していました。私は、昼飯と夕飯時に母とテレビを見るのが日課なのですが、目や体を歪ませ得る要因が一つあるのです。私が座るテーブルとテレビは斜めの位置関係になっていまして、テレビを見ようとすると体を傾けないといけないのです。それでも目が正常だったころはちゃんと眼鏡が補正してくれるため何も問題ありませんでした。しかし裸眼となりテレビに映る映像もぼんやりするので、無意識に目を凝らしていたのでしょう。そんなのが継続して眼球の形だったり神経だったり、とにかく何かがが変になってしまったのだと思います。それで目が歪むと、それに合わせようと体も歪む。そんな流れだと思います。まあこれは、あくまで患者である私の推察です。しかしいずれ病院に行く際に、「思い当たること」として医師に伝える情報としては使えるでしょう。

はい、今度はサイト運営の話になります。今でもサイトへの訪問者数は少ないです。しかし他にできそうなこともないので、この仕事を続けています。やれることをやる、そんなシンプルな考えで歩んでおります。

今回は私自身の目の症状について書きました。当初は本当に目のことだけを書くつもりでした。しかし実際に現在までの経緯を書いてみると、それ以外にも触れておきたいことが色々出てきて結果こうなりました。さてみなさん、これを読んで何か思うことがあったら、ぜひ「お問い合わせ」から連絡してください。お待ちしております。

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