物語の良し悪しとは何でしょう。なんだか哲学の議論みたいですね。今回はこんな難しい問いに答えてみようと思います。
物語の良し悪し
良い物語とは、初め受け手に願望を持たせ最後にそれを叶える物語、です。
そして良い物語は2つに集約されます。勧善懲悪物と、心に残る物語です。
悪い物語はそれぞれの項目で説明します。
勧善懲悪物
勧善懲悪物の内容ですが、まず悪者が登場します。悪者が好き勝手やって人々を苦しめます。これを見た受け手は、「こいつ、やられろ!」と思います。しかし悪者は、一向に弱る気配がありません。相変わらず調子に乗っています。しかし最後には悪者が倒れ、受け手はヨッシャー!!!となります。
これがもし、悪者が暴れるだけ暴れて終わったらどうでしょう。後味悪くないですか?だから勧善懲悪物を描きたければ、ちゃんと最後に悪が倒れなくてはなりません。
勧善懲悪物は人間の本能に基づいています。大昔、人類はコミュニティを脅かす存在が現れると、その者を排除していました。排除の仕方ですが、食べ物をその者に配らなかったり、その者を無視したりなどして、その者の生存確率を下げていくのです。排除は合理的なものです。その時代、人類は自然の中で暮らしていました。ちょっと油断してふらっと歩いていたら、猛獣に襲われてしまいます。当然助け合いは必要で、それが出来ないものは容赦なく排除されました。排除されれば生きていくことが出来ず、その者は子供を作ることも出来ません。結果、和を乱す遺伝子が淘汰されました。今でもその名残で、悪者に接すると懲らしめたくなるのです。
悪者、悪者と言ってきましたが、悪の内訳を考えてみましょう。悪の対極は正義です。なので正義を定義出来れば、それをひっくり返したものが悪ということになります。正義とは何か?それは哲学で議論されてきたことで、今では哲学者の間で大方決着がついているそうです。平等、自由、宗教、この3つです。じゃあこのまま、それぞれの前に「不」を付けて・・・というわけにはいきません。正義の方をもうちょっと考えてみましょう。
「平等」ですが、私は敢えてこれに異を唱えます。平等でも人を傷つけることがあるからです。例えば何か建物があって、そこに行くには階段を上らなくてはならないとしましょう。極々普通の人なら何の問題もありません。少し疲れるぐらいです。しかし老人は違います。疲れの度合いが比になりません。さらにもっと絶望的なケースもあります。体に障害があって車いす生活を送る人は、どうあっても上ることができません。一つの階段がみんなの前にそびえている、まさに平等そのものです。しかしじゃあこれでハッピーかと言うと、ちょっと違いますよね。あれっ?平等はいいはずなのに・・・って思いました?そのもやもやを解決する言葉があります。公平です。普段私たちは平等と公平を一色単に使っていますが、この記事でははっきりと使い分けます。或る目的を持った人たちが同じものを得る、これが平等です。そしてその人ごとに応じたものをその人が得る、これが公平です。階段の例だって、ロープウェイがあったら階段は無理でもその建物にたどり着きます。私は、平等ではなく、公平が正義だと思います。
「自由」ですが、これは正義と言っていいと思います。
「宗教」を考えましょう。誰だって、説明のつかない現象を目の当たりにすれば、何か大きな存在があると思ってしまうものです。本能と言っていいでしょう。しかし私には、それが正義の話からはずれている気がします。なので正義の内訳から外します。
以上より正義には、公平と自由があると分かりました。そして悪はそれぞれの前に「不」を付けて完成です。悪者は、不公平あるいは不自由をもたらすやつを描きゃいいわけです。で、悪者を倒すのも忘れてはいけません。
勧善懲悪物の場合、主人公は必須ではありません。勧善懲悪物と言ったら『水戸黄門』などが有名ですから、意外に思われるでしょう。しかしもし『水戸黄門』の主人公があのおじいさんでなくて、おばあさんだとしても「よし、やっちまえ!」と興奮するはずです。犬でもいいですね。罰を実行するのはどうせ助さん格さんですし。もはや生き物でなくてもいいです。悪代官が突然「うっ」と言って倒れてもハッピーです。病気にでもさせればいいんです。
しかしこれなぜでしょう?大昔、人類は悪者を排除するシステムを持っていたと既に話しました。でここで、悪者を排除するのが誰なのかは重要とされませんでした。「俺の手柄だっ!」と言う者はいませんでした。だって結局、コミュニティを守りたいだけなのですから。そんなわけで、勧善懲悪物を見る受け手は悪者が倒れる要因はさほど気にしていないのです。
心に残る物語
ぶっちゃけみなさん、勧善懲悪物よりこっちを作ってみたくありませんか?作る気がなくても、心に残るのはなぜか知りたくありませんか?
ではいきましょう。今から話す物語が心に残る物語です。
主人公は何かを見落としています。あるとき主人公はそれに気づきます。そこから主人公は生活の節々で、気づいたことを頭の中で検証するようになります。やがて主人公はそれを悟ります。
もちろんこれは抽象化したものですが、このような話であれば心に残るはずです。
見落としていることって何でしょう?例えば「死」です。みんな死ぬ、これは誰もが知っていることです。しかし大抵の人は理屈で知っているだけです。もし大切な人が死ぬときに自分はどう感じるのか、その人が死んだあと自分はどう過ごすことになるのか、その生々しさを知らないはずです。見落としている、とはそういうことです。
時間の流れの中で主人公はそれを掴む。そしたら受け手もそれを疑似体験できます。この見落としていることを悟るというのは普段なかなか経験できないので、脳はそれを特別なものだと判断します。結果、心に残るわけです。
次に、心に残る物語の各シーンについて考えてみましょう。
書くシーンの鍵を握るのが「予想」です。これも悪者を懲らしめたいのと同様に、人間の本能に基づいています。人間は、出来事が予想通りになってほしいと思う生き物です。生き物はみんな生きるのに必死です。持てるものすべて武器にします。人類は進化の過程で、突出した記憶力を手に入れました。今この瞬間を感じるだけでなく、過去も未来も想像できます。他の生物も多少は出来るでしょうが、人類は圧倒的です。ゆえに人類はこの能力を武器の中心に据えたのです。想像できると何が可能になるのでしょうか?例えば何かあった時に、なぜこうなったのかを考察することが出来ます。さらにこうしたらいずれこうなるんじゃないかと予想することも出来ます。例えば、もうすぐあそこに獲物が現れると予想しそこへ向かって、本当に現れたらお肉にありつけます。予想の精度が高ければ、生存の確立も上がるのです。だから膨大な記憶を獲得した人類には、予想を当てたいという本能があります。
さて予想が外れたらどうなるでしょう。人間が生きる上で大事なことなので、どうしてだろう?と疑問が沸くでしょう。これを心に残る物語で応用しましょう。特に序盤の方で、主人公の予想を外させます。すると受け手は疑問を抱きます。ここでもし予想通りだったら本能を刺激されません。受け手はただ、事の成り行きを確認するという感じになってしまいます。なので受け手を引き付けるために主人公の予想を外させるシーンを用意しましょう。
ここで注意なのですが、予想を想定は違います。何か対象があって、次にそれが起こすことを想像する、それが予想です。一方で、対象とは関係ないことがいきなり起こるのが、想定外です。
例えば道を歩いているとしましょう。こちらに向かってくる人が一人いるようです。その人がズボンのポケットをごそごそしました。スマホでも取り出すのでしょうか?あっとポケットから出てきたのはティッシュでした。これが予想外です。その人が鼻をかんでいるのを歩きながら眺めていると、道沿いのビルが突然傾いて・・・これが想定外です。想定外を描いても受け手の心を動かせません。だってそんなの運が決めることであり、知ったこっちゃないって感じだからです。あっそ、そしたら死んでやるよって話になります。想定外のことには、記憶が何の役にも立ちません。つまり予想通りになりたいという本能が刺激されません。
終わりに
今回は物語が何なら良くて何なら悪いのか話しました。たまにはこういうことをじっくり考えるのもいいですね。物語を作る際に、こんな話があったなと思い出していただければ幸いです。
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