自作小説『返せない本』とその解説

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今回は自分で書いた小説『返せない本』を載せます。あ、大丈夫です。みなさんは小説と聞いたら単行本一冊の文字数をイメージされるかと思いますが、掌編小説なのでサクッと読めます。その解説が下に続きます。皆さんご自身の自分の解釈と照らし合わせば、新しい発見があるかもしれません。

山田は読書家であり、家は色々な本で溢れている。知識はあるがインテリぶらずフランクに振る舞う山田は、人に好かれる。

山田には何人も友達がいるのだが、その中に田中というやつがいる。田中はときどき山田に本を借りる。田中が山田から借りるのは、もっぱら小説だ。田中はその時の気分によって恋愛小説、冒険小説といったようにジャンルを決める。

最近、山田は田中に或る本を貸した。一週間後、田中がその本を持って山田の家に行った。しかし結局、田中はその本を返すことなく帰っていった。

それからさらに一週間後、山田は田中の家を訪れた。田中はひどく動揺していた。とても友達と会う人のようには見えない。山田が挨拶しても田中は返事をしない。田中は一人でぶつぶつ何かつぶやいている。山田は、そのつぶやきが落ち着いたのを確認してから、本のことを問い詰めた。

「あの本なんだけどさ、まだ読んでるの?」

「はひゃっ!いっいっやっ、よよよ、読み終わったんだけじょ……」

「だったら返せるだろ」

「しょっ、そういうわけにゃっ」

「はぁ?なんだそれ」

「ぎゃっ、きゃえす気はあるけど、その術がなくて」

「術もクソもねえよ。普通に返せばいいだろ」

「……じゃっえさ、おっおまっもう死んでるじゃん」

これは要するに、死んだ人間が友達に会いに来て「本を返せ」という話です。怖いですね。最後、山田が死んでいたということがハッキリするのがオチです。これは神の視点だから成立した話です。もし視点が山田あるいは田中であったら、山田が死んだということがすぐに分かってしまいます。それを隠し続けるには神の視点にする必要がありました。

例えば「山田は田中の家を訪れた」を考えます。ここでも山田が幽霊であることを隠しています。山田が生きている状態であろうが幽霊となった状態であろうが、訪れたことに変わりありません。

次に「田中はひどく動揺していた。とても友達と会う人のようには見えない。山田が挨拶しても田中は返事をしない。田中は一人でぶつぶつ何かつぶやいている」を考えます。山田が幽霊なのだから田中が怖がるのは当然です。しかし今回はそれを隠しています。するとあたかも、山田ではなく田中が変な様子をしているように見えます。

次に、セリフを考えます。一見すると田中のセリフには誤字脱字が含まれているように見えます。これは前の田中の様子が変であったことを補強することになります。

最後のセリフで山田が死んでいたことが分かります。すると今までの内容の意味がひっくり返ります。田中は、変ではありませんでした。幽霊と言う超常現象に怖がっていただけ、ということになります。誤字脱字は誤字脱字ではなく、田中が怖がった様子を正確に表しただけということになります。むしろちょっとでも喋れた田中は肝が据わっているほうでしょう。あと、最初のあたりで田中が山田の家に行ったのに本を返さなかった、とありました。これも山田が死んだと分かった上でなら、こう解釈出来るでしょう。田中は遺族に本を返そうとしたが、遺族は返さなくていいと言った、と。

これはいわゆる、どんでん返しというものです。掌編小説は大抵そうでしょう。当然と言えば当然です。掌編小説はその定義通り、文字数が少ないです。するとそこに主人公の想いを詰め込めなくなります。しかし物語である以上、オチが必要です。その役目を、どんでん返しがしてくれます。

どんでん返しと似たものに夢オチがあります。しかし両者はハッキリと違います。どんでん返しというのは、それまでの内容の意味がひっくり返るものです。対して夢オチは急に脈絡のないことが起こるものです。

私は、夢オチが好きじゃありません。夢オチにしたら、今までの事が全てぶち壊しになる気がするからです。どんでん返しなら、それまでの内容が意味を変えて出現します。

今回は自作小説とその解説を載せました。この解説はあくまで、作者の解釈になります。みなさんは存分に深読みしちゃってください。

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